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Ⅰ
自分の人生はもう終わってしまった。揺れる馬車の上で、マックスは黄昏る。まだ十代も半ばだというのに、彼はすべてを諦観していた。
先祖は東欧からこのアメリカに渡って来たらしい。移民ながらも、様々な商売を手掛け、巨万とは言えないがそれなりの富を築いた。別に興味はなかった。そんなもの、家族の長の気が狂えば水泡に帰す。何もかも失った。いや、得たものはある。周りの侮蔑と憐れみの目だ。ブロンクス中の人間が「バーコヴィッツのとこのイかれた男の息子だ」と指さすか、上っ面だけの同情を向け、そういった目線は残された母子を疲弊させた。どのみち、持っていた家を維持させるだけの収入もない。ならばもう必要のない土地を売って、違う街に引っ越す方が得策だった。といっても土地を売った金も引っ越しの費用で消えた。いわばマックスは素寒貧の状態だった。
ブロンクスを離れ、やってきた街の名はロワーイーストサイド。ゴミの臭いが鼻につく、どこでも見られるような街だ。朝から馬車を引いていたが、もう時刻は夕方だ。コソ泥、チンピラ、色んなものをマックスは見下ろした。そして酒場から追い出された酔っ払い。その男に視線をやっていたら、そいつをやたらと気にしている少年に気づいた。同い年、いや年下か。
少年は、どうやら仲間と一緒に酔っ払いをカツアゲする気のようだ。なぜ横取りしようと思ったのか、マックスはわからない。からかってみたくなったのか、久々に楽しい玩具を見つけた気分だったのか。
カモを取られた少年は良い表情をしていた。不思議と、マックスの心が弾んだ。父親が精神病院に入れられて以来、違う、生まれて初めてのことだった。酔っ払いを肩で抱きながら、彼ににやついた目を向けてやったが、当の少年は諦めたかのような、凪いだ顔になっていた。いらついた。絶対にその顔紅くさせてやる、そう誓った。また会いたい、自然に思っていた。Ⅱ
別に再会するとは思ってはいなかった。ただ、面白そうだったからからかってやっただけだ。まさか近所に住んでいたとは。それも、数時間もしない内にまた会えるなんて、マックスは予想外だった。
しかし、一番意外だったのは、遠目でもすぐに彼に気づいた点だ。向こうもそうだったようだ。母のこだわりで売らなかったカメラをセットする。尻を向けてきた。尻込みせず撮ってやった。
「六枚焼き増しでな」
こちらに向かれて、マックスは自分の胸が鳴る音を聴いた。それがなんだかおかしかった。
「またコケにされたいか?」きっと突っかかる。絶対にそうだ。
マックスの予想は当たった。しかし銀時計をすられたのは想定外だった。それが警官に奪われるのも。
警官から取り返すため、マックスは思いつく限りの言葉をはねつける。彼も同調してくれた。随分と調子が合った。初めて話すはずだというのに。
結局銀時計は警官に盗られたままになった。しかしマックスはそれ以上のものを得た気分になっていた。ランプを落としそうになって助けを求めたら、何も言わず手伝ってくれた。
母が降りてきて、「その子誰?」と尋ねてくる。マックスの返す言葉はこれしかない。
「叔父さんさ」
彼が初めての笑顔を見せた。きっと一生忘れることの出来ない、朗らかな笑顔を。Ⅲ
バグジーが現れ、銃を向けてきたとき、マックスはただ逃げることしかできなかった。ただ怯えて物陰に潜むことしかできなかった。
一方、ドミニクは隠れそびれた。バグジーが引き金を引く。一発、二発。
二発目の銃声が鳴り響き、ドミニクが倒れた。
あんな、ろくに狙ってもなかったろう乱射が、ドミニクを撃った。
硬い地面に前から転げたドミニクを見ても、マックスは動けなかった。動いたのはヌードルスだ。バグジーがよそ見をした隙に、ドミニクを車の後ろに引いた。
バグジーはまだ、道端のチンピラでしかない少年たちを探している。ヌードルスの近くにいたパッツィーは、びくびくと震えていた。バグジーがパッツィーの居場所ににじり寄る。
見つかるな、見つかるな、諦めろ、マックスは唱え続けた。だがパッツィーの体が跳ね、逃げる態勢に移った。ああちくしょう、今度こそ、そう思いながら陰から飛び出そうとした。しかし、一歩遅かった。
ただ見ていることしかできなかった。ヌードルスの怒りを、そして彼が捕まるさまを。
マックスは、己が一番年上であることもあり、彼らを引っ張らねばならない、守らねばならない、と考えていた。それだけだったと思い知らされた。
マックスよりも長く、三人の仲間を率いていたのはヌードルスだ。真っ先に倒れたドミニクを助けようとしたのは彼だ。パッツィーの危機に誰よりも早く駆けつけたのも彼だ。
リーダー気取りであるならば、マックスがやらねばならなかった。しかし、できなかった。
彼は、ヌードルスも守れなかった。
一番に守りたかった存在であったはずなのに。
己の無力さが、ひどく重くのしかかった。見ることしかできなかったときも、彼に判決が下されたときも。
十二年の懲役に課されると知って、マックスは同じ罰を背負わされた気分になった。
十二年、彼といられない。
それは紛れもなく、あのとき何もできなかったマックスへの罰だった。
なぜそれが罰になるか、護送車の中から手を振るヌードルスを見た瞬間、わけがわかった。Ⅳ
ヌードルスが刑務所送りになったからといって、マックスは抜け殻になったわけではない。むしろ彼は精力的だった。——そうでなければならない。彼が帰ってくるまでの十二年間、ただ待っているだけではいけない。完璧な形で、迎え入れなければならないのだ。
仲間もいる。目標もある。しかしマックスはどこか空しかった。どれだけの大金を稼ごうと、何を成し遂げようと、ともに喜んでくれる親友はいない。いっそ、面会に行ってみても良かったのかもしれない。なぜか、できなかった。手紙すら出せなかった。書いてみたことはあった。だがすべて塵箱に放られた。
顔を合わせたところで、手紙に思いを綴ったところで、彼を抱きしめられるわけではないのだ。
親友のぬくもりが、欲しかった。
単純に人肌恋しいのでは、——とマックスは考え、女を何人か抱いてみたことがあった。できはしたが、ペギーのときと同じだ。その気になるまで、時間がかかる。そして必ず、思い浮かべるのはヌードルスの顔だった。
——あいつだったらどんな風に抱くか、どんな言葉を囁くのか。
そこにはいないどころか、もうずっと会っていないというのに。
彼は今、何をしているのだろうか。
考えずにはいられない。特に、情事の際は。
わけを、探ろうとはしなかった。
自分が狂っていると、証明することになるからだ。Ⅴ
誰よりも、その日を待ちわびていた自信がマックスにはあった。毎日、毎日数えていた。あと四千三百八十日、あと四千三百七十九日……一日たりとも欠かさなかった。
誰にも、再会を邪魔されたくなかった。出所した彼を、一番に見ていいのは他でもない自分だ。
彼は出てくると、物珍しそうに辺りを見渡していた。マックスは後ろから彼の持つ鞄を取る。
「リムジンがお待ちです」
きょとんとしていたが、わからないわけがない。十二年会ってなかろうと。少なくとも、マックスはすぐにわかったのだ。
「マクシー」
ヌードルスは眉間を綻ばせ、くしゃりと笑った。彼の笑顔に、マックスも微笑んだ。十二年の歳月は、二人をたくましい青年に成長させていた。それでも彼らはお互いがお互いであると確信していた。
あの白く細い少年の姿から、精悍で美しい男性へとヌードルスは育っていた。マックスとヌードルス、二人は固く抱きしめ合った。
ヌードルスの身体、温度、鼓動を感じた。瞬間、マックスは自分のなかで沸き立つ何かに気づいた。
そのとき、すべてが氷解した。Ⅵ
傷心の彼を、一番に見つけたのはマックスだった。
十年以上思い続けた女に振られたゆえ、酒だけでなく薬にも溺れ、泥のようになっていた。チャンの阿片窟で、幻に縋っていた。
「ヌードルス」
声をかける。彼は反応した素振りを見せた。
「ヌードルス、帰ろう」
マックスは彼の手を引こうとする。力なく、うなだれていた。マックスの方を向こうとしない。
「おい」
少し、握る力を強める。すると、彼は台から突然起き上がってきた。握られていた手を引き、マックスは思わず前に倒れかける。
固く、抱きしめられた。
彼は、何も言わない。涙を、流している様子もない。
「…………」
マックスは黙って、彼を抱きしめ返した。肩に寄せられた手に、己が掌を重ねた。しかし、
「デボラ…………」彼はそう、聞こえないくらいの声で小さくつぶやいた。
今まであふれていたあたたかな感情が、激しく炎のように沸き立つのを感じた。けれども、マックスは彼を突き放すような真似はしなかった。
憎しみよりも、こうして彼に触れられるのを喜んでいる自分がいた。そんな浅ましい欲望も腹立たしかった。
「俺を愛してるか……?」
きっと、この問いは自身に向けられたものではない。マックスはわかっていた。だから何も言わず、意識半ばの彼を、再び静かに寝かせた。
問いには、答えられる。ようやく、気づいたんだ。
愛してるよ。誰よりも、ずっとずっと。Ⅶ
狂っているとはわかっていた。成功するはずないとも。けれど、夢だった。かつて彼に語った、大切な思い出だった。
離れるなんて、道を分かつなんて、絶対に認めない。そうなるくらいだったら、一緒に死のう。あるいは、他の選択肢を探そう。そんな思いを込めた告白だった。
「お前は狂ってる」
告げられたのは、否定でも肯定でもない。ただの拒絶だった。
気づいたら、彼の持つグラスをはたいていた。強い言葉を、投げつけていた。
「言うな……二度とそんなこと言うなよ!!」
浜辺を歩きながら、マックスは水平線を見つめる。
違う。狂ってなんかいない。あの男とは違う。あんなみじめに一人で死んだような人間じゃない。
ひたすらに、言い聞かせる。けれど、内から声がする。
——いいやマックス、お前は狂ってる。親友に言われたのと、そんな風に否定してるのがいい証拠だ。お前はずっと狂ってた。
ではなぜマックスは狂っている?
無謀な計画を提案したからか?
その計画を思いついた理由はなんだ?
彼だ。すべて彼だ。どうしてここまで彼に執着する?
マックスは砂を踏みしめながら覚る。いったい何から、何もかもが始まったのか。
——ほうら、やっぱり狂ってるじゃないか。Ⅷ
その夜のマックスは恐ろしいまでに平静だった。まるでナイフのように、感覚は研ぎ澄まされ、感情は冷たいものになっていた。
抵抗はない。後悔もしない。狂っていると言われようと、構わない。
親友とも、これでお別れだ。
そう考えていたはずだった。だからマックスは、あんな台詞を吐いたのが自分で意外だった。
「今夜はゆっくり休むといい……イヴと」
予定ならば、ともに酒の密輸をやっているところに、警官が現れ銃撃戦になる。そして全員死ぬ、という筋書きだ。といってもマックスの死はフェイクだが。
それでいい、そう思っていたはずだった。もう親友は親友ではない。自分たちを密告した。裏切ったのだ。仲間ですらない。
けれどマックスの何かが、彼を行かせたくないと叫ぶ。死なせたくないと。
なぜ?
裏切ったというのに。自分を「狂ってる」と拒絶したというのに。
「お前がどこ行こうと、俺はついていくよ」
嘘だ。警察にたれ込んだくせに。
しかし、マックスはどうしようもなくその言葉が嬉しかった。
まだ、親友気取りでいるのだろうか。彼も、こちらも。
駄目だ。もう決めてしまった。捨てなければならない。もう親友ではない、この男を。
「シャーキーの言うとおり、お前を捨てるべきかもな」
だが、出た台詞は結局曖昧なものだった。彼を厳しくにらみつけるくらいが、限界だった。
「お前は狂ってる」
しかし、返されたのはまたあの拒絶の言葉だ。マックスの何かが切れた。冷静のはずだった。それでも許せなかった。
初めて、彼を殴った。しかも、気絶させる程度に。
「ヌードルス」
返事はない。反応した素振りもない。本当に、気を失っているようだった。
これでいい、——マックスは率直にそう思った。これで、親友は巻き込まれない。きっと、死なずに済む。
なぜ、ここまで矛盾した考えが両立しているのか。彼を許せないのなら、黙って連れていけばいい。生きてほしいなら、もっと他に言い方がある。
彼を見る。ソファに突っ伏して伸びていた。
なんとなく、仰向けの姿勢に直してやった。
——後悔すればいいんだ。全部、自分のせいだって。
ふと、そう頭に浮かんだ。そしてマックスは悟った。自分が本当にどうしたかったのかを。
だが、もう何もかも遅い。Ⅸ
マクシミリアン・バーコヴィッツという男は死んだ。彼が死んで、クリストファー・ベイリーが生まれた。
ベイリーは、傍から見れば順風満帆な人生を送っている。権力、財産、豪華な邸宅、賢い息子、美しい愛人、ありとあらゆるものを手に入れた男だった。
すべてはあの夜、親友を裏切ったことで得たものだ。
裏切りを、後悔してはいない。なぜなら先に裏切ったのは、その親友の方だからだ。彼は自分たちを警察に売ろうとした。ならばと、逆にそれを利用してやった。
結果、マックスという男は消え、ベイリーは得た金を元手に巨万の富を得た。一方、親友はどこかへ雲隠れした。おそらくはほとんど無一文の身で。それを考えると、ベイリーは笑いが止まらない。
今ごろ、彼はどんなみじめな暮らしをしているのだろうか。己が親友を裏切り、死に追いやったことを一生かけて後悔しているのだろう。そんな妄想は、ベイリーにとって一番の愉悦だった。
——そうして何十年という時が流れた。ベイリーが過去の親友を思い返さなかった日はない。次第に、築いてきた盤上は崩れていった。元が、嘘で塗り固められていたからだろう。
それでも、ベイリーは過去を追想する。むしろ、焦りが増えてきた日々の中における唯一の癒しなのだ。ふと、彼は気づいた。
——親友を忘れられないのは、こちらも同じだ、と。
三十年以上の月日が経っていた。彼と過ごした時間の、何倍もの時間が。大勢の人間と出会った。だがベイリー、いやマックスの心に残り続けたのは彼の親友、そう、ヌードルスだけだ。
思えば、息子に彼と同じ名を与えた時点で、気づくべきだったのかもしれない。違う、もっと前から。
まだ、何かは残っているかもしれない。
そう思い、ベイリーは電話帳を取り出す。引いたのは、「ユダヤ教会墓地担当」の番号だった。Ⅹ
彼と出会ったとき、夕暮れが綺麗だったのを覚えている。
顔に、ほんの少し太陽の光が当たっていた。
初め、いけ好かないと思った。だがすぐに再会して、あっという間に打ち解けた。話が合った。馬が合った。一緒にいて楽しかった。
仕事も、彼とならなんだって出来る気がした。だからこそ、守らねばならないと思った。ここで自分が立ち向かわなければ、全員死ぬかもしれない。なら、踏み出せた。後悔はなかった。
それで得た十二年間は、たしかに地獄だった。けれど、必ず抜け出せるとわかっていた。出さえすれば、あとはきっと楽しいことが待っている。彼が、待ってくれているから。
現に彼は迎えに来た。嬉しい土産付きで。随分いい男になっていたが、一目でわかった。向こうもそうだった。そうして十二年ぶりに、人のぬくもりを味わった。
何もかも嫌になったとき、彼の呼ぶ声を聴いた気がする。彼は口うるさいが、優しい。怒っても、喧嘩しても、いつだって向こうから歩み寄ってくれる。彼から名を呼ばれるのが好きだった。
だから、無謀な真似はしてほしくなかった。死の危険に向かってほしくなかった。なのに彼はあんな馬鹿げた計画を話した。率直に狂っていると思った。直接そう伝えた。けれど、傷つけてしまったみたいだ。
以来、ろくに話せないまま時間が過ぎて、計画の日はいつの間にか差し迫っていた。このままじゃ、彼もろとも皆死ぬ。そう思って、実行の前に彼と一緒に逮捕されようと決めた。たとえ裏切ろうとも。どんなに傷つけても、傷つけられても、止めたかった。けれど、すべては無駄だった。いや、余計だったとすら言えるだろう。自分の馬鹿な企みで、彼は結果的に死んでしまったのだから。
助けたかった。大好きな親友だったから。
でもできなかった。
それだけの話だよ。俺の昔話は、こんなにも単純なものさ。
